降るようにセミが鳴き、木陰に僅かな涼を求める頃、日本は終戦の想いに包まれます。
毎年、当たり前の様に、国のために身を捧げた英霊をともらい、忘れてはならぬ記憶として振り返り、平和に思いをはせ感謝をするのです。
我々世代は、戦後に生まれ、平和が当たり前の高度成長期に育つことが出来ましたが、その幸せは、父祖の犠牲と苦労と努力のうえにあることを忘れるわけにはいきません。
全ての秩序が崩壊した終戦、絶望が蔓延しただろう環境において、新たに秩序を組み上げて、繁栄まで導いた父祖たちの意思と力とは、どれほど凄いものだったのでしょうか。
大正生まれで、陸軍中尉で終戦を迎えた父親は、私には厳しくて怖い迫力に溢れた父親でした。
今の子供たちには信じられないでしょうが、私の父親への会話は直立不動でなされるのが当たり前だったのです。
そんな父親でも、機嫌よく酒に酔ったときは、普段は見せないような笑顔で、色んな話を聞かせてくれました。
仕事に関する話はほとんどなく、多くは戦争に関する話だったように思います。
記憶に強く残っている話は二つあります。
一つは、軍隊の命令というのは、生死に関してしまうものが多く、覚悟がなければ命令など出せないということでした。
父親は、たまたま二十四歳で陸軍中尉になりましたが、部下には父親よりも年長な方が少なくはなく、家族を持っておられる方も多かったそうです。
部下とはいえ、そんな年長者に戦地で命令を出すというのは、その環境を考えれば簡単なものではないということです。
年長者の部下だけではなく、その家族にまで命令の影響を与える可能性があるのだから、いくら上官とはいえ、覚悟がなければ命令できないというものでした。
私が、この話を父親から聞いたのは、人生に勘違いしている二十歳前の頃でしたから、強烈なインパクトがあり、その後の私の人格形成に大きな影響を与えたように思います。
記憶に残っているもう一つの話は、終戦後の復興に関する話になります。
父親は台湾で終戦を迎えましたが、兵員引き上げの責任者となり、最後まで台湾に残ることになりました。
父親曰くですが、他の将校は兵隊をいじめてばかりいたので、終戦で仕返しされるのが怖くて、先を争って引き揚げたので、父親しか現地で采配できる将校がいなかったためだということです。
最後まで残ったおかげで、親日の台湾人とネットワークを作ることができて、その後の父親の人生と仕事に、大きな影響を享受できるようにもなりました。
そんな父親も、最後に日本に引き揚げることができたのですが、地元の広島や岡山でもなく、大学時代を過ごした東京でもなく、たまたまの大阪で過ごすことになったといいます。
自分の苦労などは、あまり話してはくれませんでしたが、終戦後の日本人が、どれだけの苦労をして復興を成し遂げたかについては、タップリと聞くことができました。
何もかもを喪失した日本において、何も持たない日本人が、明日を疑わずに、ただ、もくもくと復興の努力を続けられました。
生き残るために、前だけを見つめて、強い気持ちをもって、諦めることなく取り組んだ結果が、終戦復興だったそうです。
それを成し遂げた父祖の、意志と力というのは、どれほど凄いものだったのでしょうか・・・。
今、コロナウイルスに、叩きのめされようとしています。
経験したことのない状況で、小手先の対応も通じず、多くの中小事業者が、先が見えない不安に苛まされています。
しかし、終戦後の日本と比べると、まだまた可能性のある環境ではないでしょうか。
あの頃も、これからどうなるのかの不安で押し潰されそうだったでしょうが、日本人は諦めませんでした。
僅かな可能性だったのかもしれませんが、チャレンジし続け、驚くような結果を手に入れたのです。
今、我々に必要なのは、そんな強い気持ちではないでしょうか・・・。
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